新説・日本書紀⑳ 福永晋三と往く
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2018年(平成30年)10月13日 土曜日
豊国の仲哀は小郡の陣で敵の矢を受けた。矢は熊鷹側ではなく背後からの矢ではなかったか。橿日宮に還った神功は、仲哀の仇討のため、夏4月に「北のかた、火前(肥前)国の松浦県に到る」と書紀にある。しかし、古事記仲哀記には「筑紫の末羅県」とあり、魏志倭人伝の「末盧国」と思われる。一支(壱岐)国から東に約70㌔行くと宗像市神湊に到る。どうやら、宗像市周辺の熊襲征伐に向かったようだ。 神功は橿日浦に還り、髪を解いて海に臨んだ。「私は神祇の教えを受け、自ら西を征しようと思う。頭を海水にすすごう。霊験有らば髪分かれて二つになれ」。髪は自然と分かれ、それを髻(男子の髪形)に結った。男装した神功は群臣に檄を飛ばす。万葉集9番歌だ。 静まりし大波騒げ吾が背子がい立たし兼ねつ厳橿が本(静まっていた大波よ騒げ。物部氏よ決起せよ。吾が背の君仲哀がお立ちになれなかった橿日宮の厳橿の根元で、弔い合戦を誓っておくれ) 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(新北津で軍船の船出をしようと、満月を待っていると月も出て、潮も船出に適する大潮になってきた。さあ、今こそ背の君の仇討に漕ぎ出そうよ) 西の熊襲討伐の戦後処理
宗像の入り江に侵入した神功軍は敵を一蹴した。仇討を果たした神功は不思議な行動を執る。 神功は、末羅県の玉嶋里の河中の「石」の上に立ち、着物の糸を抜き取り釣糸とし、針を曲げて釣針とし、飯粒を餌として細鱗魚を釣り上げた。神功は言う、「めずらしい物だ」と。 右の故事から「釣川」の名が生じたのだろう。また、古事記の割注に、わざとのように「『石』の名は勝門比売と謂う」とある。さらに、万葉集869番に山上憶良の歌が載る。 帯日売神の尊の年魚釣ると御立たしせりし石を誰見き(息長帯姫の尊=神功が年魚をお釣りになろうとお立ちになった石を誰が見たか、いや、誰も見ていない) この「石」の正体について、『鬼の日本史』にこう記す。古代の戦で、捕虜になった敵の首長は手足を切断され、やがて失血死した。これを「石コロにす」と言い、今日の「殺す」の語源となった。
神功は、ダルマ状態の勝門比売の上に立ち、その口に飯粒を垂らし、「めづらしき物なり」と言った。時の人がそこを名付けて「梅豆邏国」と言った。「末羅国」のひねりであろう。 神功に敗れた「末盧国の勝一族」は肥前国松浦郡(佐賀県・長崎県の北部)に遷された。彼らの反乱を警戒したのだろうか、その抑えとして伊都県主が旧怡土郡(糸島市の一部)に移封されたようだ。 末盧国も伊都国も橿日宮もすべて豊国の西方に遷された。 次回は27日に掲載予定です
鞍手町新北の熱田神社の古宮側から見た「にぎた津」跡